見える?見えない?

 来週、広島に行ってきます。原爆ドームと、原爆資料館ははずせません。日本人として一度は見ないとと思っているからです。そんな話を母親としていると、母親は必ず「絶対出るから、ホテルは選べ」と言うので先手を売って、友達に良いホテル聞いておいたから大丈夫だよというと、「でも、雨の日なんかは寂しいらしいじゃない。」といってくる。なので、見える人からすると本当にその場にいるかのようにみえて、目の前にいる人と変わらないらしいし・・・と話し、その後脳の情報伝達により見える映像が決まるので、心霊写真なんかも目の錯覚によるものが大きいと話そうとしたら、母親はこういった。
 「普通に見えるのとかわらんよ。ただ、輪郭がはっきり見えるかそうじゃないかやよ。」と。
 ウチの母親は霊感はあるほうで、そんな話も時折聞いている。しかし、見えるとは聞いた事がないぞと思い、「自分が見た風に言うねぇ。」というと『一回だけ見た』という。話を聞くとこうであった。
 母の兄は直腸ガンで亡くなっているのだが、墓を建てた直後に私の母とその弟(私の叔父にあたる人である)が墓参りに行ったときの事であったそうだ。そのとき叔父は怒りながら御供物として缶コーヒーをガチャガチャとお墓に御供えしていたそうだ。母の兄はいつもコーヒーを飲んでいたので、皆は好物であると思っていたようだが、実は直腸ガンにコーヒーがいいというので飲んでいただけで、好物というものではなかったらしい。そんな様子をみながら車で待っていた母は、「兄弟なのに怒りながら、ガチャガチャとおかなければいいのに。」と思っていた次の瞬間であった。目の前に母の兄が渋い顔をしてこちらを見て立っているのである。「あ!お兄ちゃん。ちゃんと足もある。死んだと思っていたけど、生きとったんや。」と思い、声をかけようと思ったとたんに消えてしまったらしい。
 自分は見た事がないし、信じるもなにもない。金縛りについても、科学的に実証されたりしている。大切なのは自分がどう捉えるかでないだろうか。
 しかし、『見えないもの』は見えない方がいいなぁ。